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佐佐木方斎展「メタレリーフ」/研ぎ澄ます。

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今日から、学校がはじまった。
ブレザー1枚で外に出るのは久々で、とても新鮮な心地だった。
自転車解禁で、家から駅まであっという間だ。
学年が変わると、バッチの色が変わる。三年生の色は一番暗くて、重たい。赤いバッチを付けていた(一年生の)ときは、その重さに何となく憧れをもっていたのに、そこに自分が到達したということが、おかしな気持ち。付け替えるとき、教室中にネジをまく金属音が鳴り響いていた。進級は機械仕掛けのよう。

昨日は、佐佐木方斎さんの展示を見に、テンポラリースペースへお邪魔した。展示のタイトルは「メタレリーフ」。展示の案内をご覧になった(現在は横浜の)Tさんが「メタレリーフってなに?」という反応をされていた。私も、その正体がわからないまま、少しどきどきしながら、訪ねてきた。

案内の文章(オーナーの中森さんによる)を引用する。

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佐佐木方斎さんの昨年、一昨年に続く3度目の個展です。 一昨年は床に臥したままの状態でしたが、彼の’80年代 の熱い活動を、格子群を主に、7,80年代の文化状況を 統括する「美術ノート」全巻。九州・韓国の作家との交流 を企画した北海道現代作家展カタログ等を展示しました。 また、昨年は’90年代を象徴するような「meta絵画」 。30層に白く塗り込められた孤立無援の彼を顕したかと 思います。今回の「メタレリーフ」は。その残されたメタ シリーズ最後の作品群と思われます。 このメタシリーズにこそ、隠された佐佐木方斎の’90年代 が潜んでいるかに思えるからです。 自宅をTギヤラリーに改造し、’90年代初頭まだ珍しかった パソコンを駆使し、千人単位の人とチャットし続け、個として 時代に開こうとした孤立した闘いの痕跡がそのメタシリーズに はあると思います。 熱い’80年代、孤立した’90年代を経て、我々の現在が あります。その底流を再度見詰め、顕在化する努力を今回の 個展を通して再発見して頂ければと願うものであります。

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「メタレリーフ」の正体。それはスクラップ――捨てられた天井板材を研磨し、着色したものだった。
佐佐木さんが90年代後半に制作された未発表作品だ。
防音の部屋(音楽室などが馴染み深い)に使われる天井板材は、マス目のように四角が盛り上がり、凹凸。近くで見つめていると、ふしぎと懐かしさがこみ上げた。失礼ながら、マーブル状に着色されたそれを見て、私は〈おばあちゃんの家のお風呂のタイル〉を思い起こしたのだった。遠くで眺めるよりも、近づいて観察する方が、断然面白い。ひび割れた絵の具は、薄い銀紙を破いたチョコレート(もちろん、板!)のよう。乾いた感じはウェハースかな。「おいしそう」と言ったら、中森さんに笑われてしまった。ええ、スイッチのように飛び出たものをつまんで、口に放り込みたくなる。昔懐かしい大きなキャラメルをほおばるように。ほとばしる稲妻、少女の横顔、供花を彷彿とさせるもの、非常に想像力をかきたてられた。ひとつの「メタレリーフ」が小さな四角の集まりであるため、四角と四角の隙間に想像できる余地が与えられているように思う。
中森さんは、「メタレリーフ」を「私たちの’90年代を象徴して現在に繋がる」作品とし、次のように語っている。

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ゴミの保つコンテンポラリーな性格、ビニール袋一枚の日常性が保つ国境なき同時代性をアメリカ式の文化・文明の止揚を抜きに今という時代を考える事は出来ない。佐佐木方斎さんが、炎のような’80年代を経て、この消耗文化の象徴たる天井板材を素材にこうした作品表現を試みていた事は、現在の時点でももっと評価されて然るべきなのだ。

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もしかすると、私が「メタレリーフ」から感じた、懐かしさや、生活感。
それは私が生まれた90年代そのものだったのかもしれない。

また、「美術ノート」(86年から87年にかけて、佐々木さんがほぼ独力で発行された隔月刊誌)や、作品集「格子群」「余剰群」「自由群」を拝見。「格子群」「余剰群」を見ていると、ブルーナがデザインしたペーパーバックの表紙を想起する(けして似ているわけではないのだが、ペーパーバックのデザインにはぴったりだと思った)。「余剰群」で赤い四角が溶け合ったようなものに惹かれる。「自由群」では、心臓型の赤と、心臓の左わきにすっと緑の入った作品が印象に残った。たくましいトマト。
ご自身の作品にはもちろん、北海道の作家を発信していかれる姿勢に、佐佐木さんの熱意を強く感じた。
(佐左木さんは他の方の作品の解説までしてくださった!)

北海道美術ネット別館で、
「格子群」の写真を見ることができます→コチラ


椅子に腰かけ、櫻庭洋一さんの歌集(佐佐木さんの手により、出版にこぎつけたという)を読みふける。だんだんと日が落ちて、左肩が冷えてくる。月明かりを飲み込むと、腹の底でも光っているのがわかる、というような歌。詩の紙は食べるが小説の紙は食さない山羊の歌。病床で身を削って3000首を詠んだそうだ。

私は思いを巡らせることが好きだ。他人の作品からあれこれと想像したり、作品と何かを繋げたりしてしまう。そのため、呆れられてしまうことも多いけれども、その行為は感覚への自信を取り戻させてくれる。だから、思いきり感受性を飛ばしてやろうと思う。うんと遠くに飛ばしてやりたい。そのことがきっと私を強くする。鳥の目になろう。騒ぐことなく、見つめよう。眺めるのではなく、観察しよう。いろいろな人生を生きてみたい。次のページをめくる前に、私だったらどう書くか。創作に向かう姿勢はどうか。どう人を想うのか。

研ぎ澄ますのだ。



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by moonpower0723 | 2009-04-08 23:58 | 美術部の人々、札幌アート

文学少女は詩人をめざす


by moonpower0723